覇王樹の歴史
「覇王樹」は大正8年8月、橋田東聲によって創刊されました。
写真・橋田東声
創刊者 橋田 東聲 Hashida Tousei
(1886-1930)

・橋田東聲歌集『地懐』
・佐田 毅著『橋田東聲の研究』(平成13年7月3日刊)

明治19年(誕生)
(1886)
現在の高知県中村市有岡の農家に次男として生まれた。本名は丑吾(ちゅうご)。高知県立中村中学校に入る。
明治39年(18歳) 初めて短歌を作り、雑誌「青年」に投稿した。中村中学校を卒業後、画家を志して、上京し、試しに受けた高等学校入学試験に合格したため、鹿児島第七高等学校造士館に入学。級友に、堀内卓造、中村憲吉がいた。
明治40年(19歳) 「明星」の社友となり、濤聲と号したが、与謝野鉄幹に「濤」の字は難しいから 、「東聲」(とうせい)に改めるように言われ、以来「東聲」と号する。
明治42年(21歳) 七高を卒業後、東京帝国大学英文科に入学したが、途中経済学科に転科。小説・新劇にも興味を持ち、森田草平とも同居した。また、伊藤左千夫を訪ね、左千夫の紹介で、「ほととぎす」に小説を発表する。
大正2年(27歳) 東大経済学科を卒業。同郷の川島朝子(後の北見志保子)と結婚。東京日日新聞社編集局に入社。文芸紹介の翻訳も行う。
大正4年(29歳) 有楽町歩行中に突然喀血し、東京日日新聞社を退社。病床にて、斎藤茂吉の『赤光』を読み、作歌を再開した。『赤光』評を「アララギ」に発表。短歌・評論も寄稿した。また、茂吉の紹介で、前田夕暮を知る。
大正5年(30歳) 東京農業大学講師、横浜商業学校の教師となる。財政経済学を担当。『評論現代名歌選』を白日社より出版。父危篤の報を受け、帰京したが、父忠太郎が死去(享年61歳)。帰郷後、病気再発。今度は、母危篤の報を受けたが、病気のため帰郷ならず、母も死去(享年58歳)する。
大正6年(31歳) 四海民蔵・森園天涙・岩谷莫哀・今村沙人・貴田実・鎌田虚焼・中山雅吉・臼井大翼等と「珊瑚礁」を創刊。
農業大学及び横浜商業を辞職し、農商務省臨時産業調査局嘱託となる。『農業倉庫論』刊行。
大正8年(33歳)
(1919)
弟亀吉死去。「珊瑚礁」を終刊。
同年8月、臼井大翼と雑誌「覇王樹」創刊。
東洋拓殖株式会社に入社。参事となる。
大正9年(34歳) 兄死去(享年42歳)。報知新聞社歌壇選者になる。
大正10年(35歳) 処女歌集『地懐』を東雲堂より出版。
大正11年(36歳) 夫人と別居。協議離婚となる。「歌壇の近状」「公開状に答ふ」を「短歌雑誌」に発表。
大正12年(37歳) 「短歌雑誌」の第一回大森批評会を自宅で開催。出席者、前田夕暮・吉植庄亮、矢島歓一等。「大正11年の歌壇の考察」と短歌「冬の日」20首を「短歌雑誌」に発表。
また、宇和島の中井コッフを訪ね、歌会を催す。「斎藤茂吉に与へて歌壇の近状を報ず」・「短歌の本道(狭野茅娘子の悲歌)」・「歌壇雑感」・「私は良寛を好む」・「茂吉・夕暮・牧水に与ふる歌」などを各雑誌に寄稿している。
本郷菊富士本店方尾山篤二郎における「短歌雑誌」の歌会に出席。千葉県歌人大会に出席し、翌日、吉植庄亮・北原白秋・古泉千樫・尾山篤ニ郎等と印旛沼に遊ぶ。
小田原天神山「木菟の家」に、飯田莫哀・岸良雄・高木一夫等と北原白秋を訪ね、水の尾道を吟行する。
「覇王樹」に「竹の里歌私鈔」を連載し、また「良寛短歌輪講」を相馬御風・臼井大翼等と執筆。9月、関東大震災。当時東聲宅に仮寓中であった飯田莫哀夫妻と自宅を捨て、非難してきた吉植庄亮夫妻と二日間野宿。「覇王樹」9月号と『自然と韻律』の原稿は焼失。
翌月、尾山篤ニ郎・吉植庄亮・北原白秋・前田夕暮・川田順等と「樹海」の発行計画があったが、成立せず。
大正13年(38歳) 震災で休刊していた「覇王樹」を復活。法政大学講師となる。司法省刑務協会嘱託となる。『自然と韻律』(高陽社)を出版。「主婦クラブ」の歌壇選者になる。『新釈和歌叢書正岡子規歌集』(紅玉社)出版。紀内茂子と再婚。日本大学講師となる。
大正14年(39歳) 『万葉集評釈傑作選』(聚芳閣)・『評釈和歌叢書 万葉女流歌人歌集』(紅玉社)・『静夜歌話』(春秋社)出版。鶴岡市で「長塚節論」を講演する。
昭和元年(40歳) 「農村教育新公民読本」を出版。『土の人長塚節』(春陽堂)を出版。全国町村長会政務調査主任を拝命。大阪朝日新聞九州版歌壇の選者となる。
昭和2年(41歳) 『正岡子規全伝』(春陽堂)・『新訳長塚節歌集』を出版。
昭和3年(42歳) 文部省専門学務局思想調査課に勤務。「子規と柿の話」を東京放送局より放送。『世界大思想全集』第5編として、ニコラ・マキアヴェリーの『君子論』を翻訳出版。
昭和4年(43歳) 『子規と節と左千夫』(富士書房)を出版。明治大学講師となる。覇王樹十周年記念大会を上野公園韻松亭に於いて行う。
昭和5年(44歳)
(1930)
文部省に於ける実業学務局主催第三回公民教育講演会講師として「思想問題と学生運動」を講演する。「西行について」を東京放送局より放送。文部省学生部において、約一年間執筆していた「学生思想運動の沿革」を完結する。
12月2日、腸チフスにより、帝国大学伝染病研究所付属病院に入院。
18日、東京外国語学校教授を拝命。従六位に叙せられる。
20日午前4時10分死去。
遺骨は、高知県中村市有岡山真静寺と神奈川県柿生の善正寺に納められる。
昭和8年 『無限の道』(無限の道発行所)が刊行された。

橋田東聲の歌集『地懐』
書籍・橋田東声歌集『地壊』

 東聲は、略歴にも記したように、翻訳を初め、農政学や経済学の著書、『万葉集』に関する著作や正岡子規・長塚節などの様々な人物についての書籍を出版している。そのようななかで、『地懐』は、東聲が生前に出した唯一の歌集である。大正5年から大正9年までの総歌数692首を収めている。東聲が、没した4年後、臼井大翼が、『橋田東聲歌集』を出版している。これは、『地懐』およびそれ以後の作品を収めたものである。 『地懐』は、早世した父・母・兄・弟・二人の甥を相次いで亡くした東聲の悲痛な心情が詠われている。また、妻と別居し、離婚した当時の心境も詠われている。
次の歌は、不運の連続のなかでも、ひたむきに生を凝視し、必死に生き抜こうとする姿勢が窺われ、現代人にも、力強く迫ってくる。

橋田東聲の歌

  • 木に花さき陽はうらヽ照る眼をあげよこの天地にかなしみあらず
  • 立てかけて壁に干したる胡麻の実のおのれはじけて散る頃ならむ
  • まんまんと湛へあふるヽ朝の湯にめざめうれしきからだをひたす
  • 親馬の道をいそげば霧にぬれて子馬もはしるいななきながら
  • あさつゆの光の中につつましく葉と葉寄り添ふ言かはすがに
  • まつとひとり来ぬれば夏の海の潮のはたてに月いでにけり
  • 子なき家のあけくれさびしき裏畑に鶏を飼はなと妻にはかれる
  • いでて行きし妻をあはれと思ひつつ庭の樹空を見てゐたりけり
  • かりそめにちぎりしことと思はねど去り行く心つなぐすべなし
  • おのづから吹き起る風をさびしめり松の林に歩み入りつつ
    (柿生善生寺の歌碑の歌)


写真・臼井大翼
臼井 大翼  Usui Taiyoku
(1885-1947)
臼井大翼は、東聲と共に「覇王樹」を創刊しました。東聲亡き後、第二代目の主宰になりました。大翼の晩年は、戦時下の雑誌の統廃合・復刊など、受難の時代でした。大翼は、最後まで、「覇王樹」を懸命に守りました。

明治18年
2月千葉県海上郡矢指村に千松家の長男として生まれる。「ひろすけ」と読むが、「たいよく」が通っている。
明治39年(22歳) 第二高等学校入学
明治43年(26歳) 東京帝国大学入学。
大正2年(29歳) 東京帝国大学独法科卒業。春、卒業試験準備のため鎌倉で橋田東と出会う。大安生命保険会社創立。大正12年まで、同社役員に在職。10月に結婚し、臼井姓となる。
大正6年(33歳) 橋田東聲・四海民蔵・森園天涙等と「珊瑚礁」を創刊。
大正8年(35歳) 「珊瑚礁」を終刊し、橋田東聲等と共に「覇王樹」を創刊。
大正11年(38歳) 弁護士開業。法政大学講師となり、昭和8年まで、出講。
大正12年(39歳) 横浜で関東大震災に遭遇。東京に移住する。
大正14年(41歳) 第一歌集『私燭』を刊行。
昭和2年(43歳) 大安生命保険株式会社を辞す。
昭和4年(45歳) 上野韻松亭において覇王樹十周年記念会を行う。
昭和5年(46歳) 橋田東聲死去。覇王樹主宰となる。
昭和13年(54歳)  朝鮮半島各地を巡る。覇王樹二十周年記念として、合同歌集「覇王樹」を出版。
昭和14年(55歳) 覇王樹二十周年記念祝賀会を日比谷三信ビルで行う。土岐善麿・前田夕暮・窪田空穂・斎藤茂吉等歌壇長老が集う。覇王樹二十周年記念関西大会を大阪帝塚山学園で行う。同東北大会を仙台で開催。関西旅行中、腸チフスを罹病し、日赤に入院。帰京して、完治。
昭和15年(56歳) 現代短歌第四輯に5ヵ年間の作品を「環林荘歌抄」として登載。東聲十回忌を柿生善正寺で行う。
昭和16年(57歳) 群馬北支社講演会に出講。大日本歌人会創立幹事となる。福井石川療養所で講演。
昭和17年(58歳) 弁護士を廃し、日本撚糸聯合会理事長に就任。
昭和19年(59歳) 覇王樹・合併号『爽節』日本縫糸統制株式会社社長に就任。8月より短歌結社合同論が起こり、雑誌統合制で残ることになった結社は、16であった。幸い、「覇王樹」は残れたが、五島茂・五島美代子の「立春」と合同し、「爽節」として発足、臼井大翼が主宰する。戦局急迫のため「爽節」5冊を発行したのみで終刊とする。
昭和21年(61歳) 統合制がなくなり、「立春」を別れ、「覇王樹」に復題再発足。
昭和22年(62歳) 東京下馬の自宅にて、急性肺炎のため逝去。横須賀市浦賀町久里浜宗円寺に埋葬。 
■『臼井大翼歌集』(昭和45年8月)は、覇王樹五十周年事業の一環として、松井如流・小林周義等を中心に刊行される。第一歌集『私燭』も収録。それ以後の歌も出来るだけ収載に努めた。松井如流は、同書のあとがきに「大翼の歌は、佶屈晦渋だという評を受けたことがあるが、元来は抒情詩人で情趣に富み、その上神経が細く、使用する文字にも特別の好みがある」といっている。

臼井大翼の歌
  • 都べに春ぞかへれり生きの身のくやしきことはかへすすべなし
  • 暑き日の午睡さめたる夕翳にさびしきことをわれは思へり
  • 松の間に海の潮風はふかかりき浜のしら砂を浄くわが踏む
  • かたむきて日にあたたまる庭芝の枯生はいろのしづかなるもの
  • 夕なぎのさびて明るくゐるときに門べの砂利を人ふみゆけり
  • 恥いくつ加ふるごとく歌よめり身につもりては恥も愛しも
  • 泣きやみて部屋に入り来し孫の眼のうたがはず寄るをやはらかに抱く
  • 字を書くと歌をつくるとはかなごと時に疾のごとわれを虐む

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敗戦直後の受難時代と新生への道
昭和23年7月 歌誌『さぼてん』臼井大翼が、志半ばで死去し、また、物資欠乏・経済的困窮のため、継続が不可能な状態であったが、心ある同志による復刊の願いが止み難く、ガリ版刷り会報「さぼてん」(4号まで)を発行した。 編集人松井郁次郎(如流)・発行者海老沢欽三。
昭和24年1月 月間活版誌「覇王樹」復刊。編集発行人は6月まで天海鎮夫。
昭和24年7月 木村捨録(第3代主宰)
昭和25年1月 発行人 木村捨録 編集人 海老沢欽三 
昭和25年7月 編集発行人 鎌田澤一郎(第4代主宰)
昭和29年4月 編集者 松井如流 発行者 鎌田澤一郎
昭和29年6月 編集発行人 松井如流(主宰)
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写真・松井如流
松井 如流  Matsui Joryu
(1900-1988)
松井如流は、臼井大翼亡き後の受難時代を乗り切り、「覇王樹」の主宰となりました。書家として第一線を歩むとともに、「覇王樹」をまとめて行きました。
本誌の題字は如流の書です。

明治33年(誕生)
秋田県横手市に生まれる。本名郁次郎。
大正 7年(18歳) 短歌を作り始める。松村英一の「短歌雑誌」に投稿。
大正12年(23歳) 吉田包竹に入門。書を学ぶ。
大正14年(25歳) 須藤泰一郎の紹介で、「覇王樹」に入社。橋田東聲に師事。
昭和 5年(30歳) 東聲没後、臼井大翼に師事。
昭和17年(42歳) 『書論と書話』(大日本出版社峯文社)刊行。
昭和19年(44歳) 『日本百人一詩帖』(清雅堂)(東京書道会第40回記念刊行物)
昭和23年(48歳) 海老沢欽三等と「さぼてん」を発行。書道総合雑誌「書品」を編集。
昭和25年(50歳) 「日展」審査員。
昭和29年(54歳) 「覇王樹」主宰。大東文化大学教授。
昭和31年(56歳) 第一回「覇王樹」全国大会を上野博物館内で行う。
昭和32年(57歳) 日本短歌雑誌連盟の幹事に選出される。
昭和33年(58歳) 東京書道展創立。日本書道代表団12名に選ばれて、第一回中国旅行。「日展」評議員。文部省教化図書検定審査議会委員委嘱。
昭和35年(60歳) 『近代中国の書-附中国遊記-』(二玄社)刊行。覇王樹四十周年記念会開催。神田学士会館。還暦祝賀会を上野精養軒で行う。日展出品文部大臣賞受賞。
昭和36年(61歳) 第二回中国訪問。
昭和39年(64歳) 日展出品作日本芸術院賞受賞。
昭和42年(67歳) 日本雑誌連盟より優良歌誌として表彰される。『條幅篇額の研究』(二玄社)を刊行。
昭和43年(68歳) 『文士の筆跡』全五巻共著(二玄社)刊行。
昭和44年(69歳) 『現代結社代表歌人選集』(桜楓社)に塩川三保子執筆の松井如流論が掲載される。「日展」理事。古希記念書作展を日本橋三越で開催。
昭和45年(70歳) 覇王樹五十周年記念を神田学士会館にて開催。土屋文明等出席。記念号及び『臼井大翼歌集』を上梓。
昭和46年(71歳) 歌集『水』(新星書房)上梓。学士会館にて出版記念会。『現代書道教室 松井如流』(筑摩書房)刊行。
昭和48年(72歳) 大東文化大学名誉教授。
昭和49年(74歳) 長崎歌人会で「歌と書」について講演。
昭和50年(75歳) 「日展」参与。「覇王樹五十五周年記念評論集」刊行。
昭和51年(76歳) 勲三等瑞宝章を受ける。『松井如流書伝』(尚学図書)刊行。
昭和52年(77歳) 『書道入門』(大日本図書)・「松井如流書法-現代日本書法集成-」(尋学図書)・『中国書道史随想』(二玄社)刊行。喜寿記念書作展を日本橋高島屋で開催。
昭和53年(78歳) 日本歌人クラブ名誉会員に推される。
昭和54年(79歳) 脳血栓で入院。編集実務は、小林周義が担当。
昭和55年(80歳) 「日展」参与。「覇王樹」六十周年記念特集号刊行。『練馬草堂雑筆』(創刊六十周年記念事業推進委員会刊)記念会を学士会館で行う。臼井大翼三十三回忌法要(久里浜宗円寺)・橋田東聲五十回忌法要(柿生善正寺)を行う。
昭和56年(81歳) 傘寿余韻小品展をギャラリー四季にて開催。
昭和57年(82歳) 新春書展、日産アートサロンにおいて開催。
昭和58年(83歳) 『松井如流作品集成』(講談社)刊行。
昭和59年(84歳) 歌集『風』(新星書房)刊行。
昭和61年(85歳) 書話集『練馬草堂雑筆』(練馬草堂雑筆刊行会)刊行。
昭和63年(87歳) 1月17日、心不全のため逝去。『松井如流短歌選集』(同年3月覇王樹社刊)の刊行を待たずに逝去。
覇王樹表紙・昭和29年6月号■現代の三筆と言われた如流は、書家として、歌人として、その功績において著しいものがあった。松井如流が編集発行人となった「覇王樹」34巻6号/昭和29年。(写真)

松井如流の歌
  • 少年われ寂しく育ちて送盆を母と見し日は町暗らかりき
  • 書を書き通したる生涯の終局をひそかにゑがき寂しむ日もあり
  • 君が一生をかけし歌なり玉のごといつくしまるべし幾世の後も
  • 瞬間を生きつづけながら遂に死ぬ真実はそれだけしかないのです
  • 阿呆の一生といはれても悔いなしと思ひ至るまで堪へこしかずかず
  • 幼孫の頬のやうなるふくらみの花弁の開く泰山木の花
  • 橋田家の六つの墓ある丘の上先生のみ墓が追加され古る
  • 大切にお金あつかふ妻みれば計へきれぬほど与へてみたき
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写真・小林周義
小林 周義 kobayashi Syugi
(1914-2000)
小林 周義は、臼井大翼に入門しました。松井如流の片腕として、編集の実務をこなしていました。松井如流亡き後、「覇王樹」の代表となりました。

大正3年(誕生)
山梨県北巨摩郡高根町に四男として生まれる。
昭和4年(15歳) 安都尋常高等小学校卒業。
昭和7年(18歳) 同郷の印刷会社社長を頼り、上京。11月、父久吉死去。
昭和8年(19歳) 臼井大翼の門に入る。
昭和12年(23歳) 飯田莫哀選歌欄で活躍。
昭和14年(24歳) 覇王樹の編集を担当する。(以後4年間)ロイマチスと診断され、療養のため郷里に滞在。
昭和16年(27歳) 「聴雨荘夜話」を執筆。
昭和18年(29歳) 栗川あきと結婚。
昭和20年(31歳) 戦災で工場ならびに自宅を焼失。帰郷したが、再び上京。
昭和26年(37歳) 朝鮮動乱で不在中の鎌田澤一郎主宰の代行する。
昭和29年(40歳) 覇王樹編集同人となる。
昭和33年(44歳) 松井主宰らの中共訪問日本書道代表団の壮行会に出席。「覇王樹40周年記念会」にて、「昔の覇王樹、今の覇王樹」を語る。
昭和35年(46歳) 「松井如流還暦祝賀会の記」を執筆。
昭和36年(47歳) 4月から10月まで、渡辺朝次・重光みどり・山口正・茂手木みさをと「自然か人生か」「抽象か具象か」等のテーマで誌上討論する。
昭和38年(49歳) 「短歌研究」に「臼井大翼先生素描」を執筆。
昭和40年(52歳) 原常雄が「小林周義の作品」を執筆。
昭和42年(53歳) 「短歌研究」に作品発表(これより短歌総合雑誌に発表した作品は、三十余回)
昭和43年(54歳) 第一歌集『巒』出版。
昭和44年(55歳) 大阪グランドホテルにて『巒』出版記念会。『巒』批評特集号。東海印刷を退社し、別の印刷所に入社。
昭和45年(56歳) 覇王樹五十周年記念号に佐田毅が「小林周義論」を執筆。
昭和47年(58歳) 松井如流・末松てる・小林周義で「臼井大翼歌合評」を17回連載。
昭和48年(59歳) 田中理康が「『巒』以後の小林周義」を執筆。松井主宰が白内障で入院のため、編集の任が重くなる。
昭和51年(62歳) 現代歌人協会会員に推挙される。
昭和52年(63歳) 塩川三保子・末松てる・松井主宰と22回にわたり「金子信三郎研究」を行う。第二歌集『嬾』を出版。
昭和54年(64歳) 松井主宰入院に伴い、選歌編集の一切の責任を負う。
昭和55年(66歳) 関西覇王樹創立十周年記念歌会に出席。「群馬覇王樹」結成に招かれる。
昭和58年(69歳) 岩井喜代子が「小林周義の人と作品」を執筆。第三歌集『ラン』を出版。
昭和61年(72歳) 編集室を新居横浜市戸塚区に移す。
昭和63年(74歳) 弟四歌集『蘭』を出版。松井如流逝去に伴い、「覇王樹」の代表になる。
平成1年(75歳) 「短歌」に時評「俵万智の転身」を執筆。
平成2年(76歳) 東京四季出版『新現代歌人百人百書』に参加。「短歌」11月号「自歌自解・11月の歌」を執筆。
平成3年(77歳) 「短歌」3月号に「綜合誌に求めること」を、「短歌四季」秋号の「我が心の故郷」に「懐かしい山と人々」を執筆。東京四季出版『現代の肖像続百歌人』に参加。病気のため入院。
平成5年(78歳) 中山ふみ子が「小林周義歌集『巒』の世界」を執筆。『現代の秀歌500』(短歌新聞社刊)に「花の枝なき枝に靡きつつ夾竹桃の永きたゆたひ」が選ばれる。綱島歌会主催にて「小林周義先生傘寿祝賀会」開催。
平成7年(81歳) 5ヵ月間入院。
平成9年(83歳) 中山ふみ子・臼井良夫・重光みどりにより「小林周義作品研究」が22回にわたりなされる。
平成10年(84歳) 5月本社代表を退く。
平成12年(86歳) 3月21日、肺炎のために永眠。『現代短歌大事典』(三省堂)に近現代の歌人として採り上げられる。「現代歌人協会報」84号に「小林周義追悼記」(橋本俊明執筆)が掲載される。
「覇王樹」創刊70周年記念号「覇王樹」創刊70周年記念号/平成2年(写真) 編集人 小林周義。

小林周義の歌
  • 朝の月ゆふべの光失ひて一巡の世の影を貰へり
  • 世の外の炬燵番なるうたた寝の夢のすべてが灰色になりき
  • 散策の足にまつわる町雀手にする杖を凶器とは見ず
  • 世にありし五十余年の贖罪は眠りの夢がまかなふらしき
  • いとまあるゆふべ一刻陽に灼けし宿の畳のうへに坐れり

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